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12/05日の思ったこと(自分のこと#4)

働くってことは、僕は簡単じゃない。

※ものすごい長文なので、適当にするーしてくだい。
もはや自分のためだけに書いているので、狙ったり特盛ったりしているわけでもないので、ダラダラと面白くないと思います。


初めての東京の夏

初めての東京は暑かった、その頃の会社は18:00になると冷房が切れた。
まだ、ぎりぎりメタボ体形ではなかったものの、不摂生の味を覚えた体には答えた。
2週間くらい滞在したが、連日深夜までの勤務も辛かった。
なんで、こんなに働かなきゃならないんだろう...早く終わんないかな😒
後から思えば、この程度の労働は問題外だった。逆に言えば過酷なプロジェクトはいくらでもこれから待ち受けるのを知らなかったんだなあ。


初めての人

嫁さんの手前、盛大には書けないがこのころ初めて彼女ができた。
若い頃に良くあることかもしれないが、職場の年上の女性だ。自分の会社ではなく親会社の人間だった。
彼女は遠方から車で通う強者で、車好き同志盛り上がったことを思い出した。
親会社に所属する彼女の手前、カッコの悪い仕事はできない、その程度の気持ちで頑張ったなあ。


初めての後輩

そういえば、この頃21-22歳は、徐々にほぼ同年代の専門学校卒や大卒の後輩が出来始める、ただし自分の会社ではなく親会社の人間だ。
何だかこんなに仕事頑張っているのに、なんか釈然としなかった。
仕事はできないのに給料は、僕よりもずっと良くて悔しかった。。


そしてようやく僕の所属会社にも一人、新しい社員が入ることなった。
後輩ができたと思って嬉しかった、でも4つ上大きな人でもうベテランで話の合わない人だった。。「なんだか、つまんないあ」
そんなこんなで高学歴の年上や同世代の後輩に、負けたくなくて頑張って働いた。
それでも給料は大差があって悔しかった。


初めてのドリフト

もともと車レースは、何となく気になっていた。特にスカイラインR30時代のスーパーシルエットレースのポスターに魅了されていた。
もちろん日産派だった僕は、カローラFXからNISSAN 180SXに乗り換えた。
勿論マニュアルミッションの車だ、意味もなくギアチェンジを繰り返して空ぶかしをするのが大好きだった。
そして地元の走り屋のチームに入って、金曜、土曜の夜は峠に向かった。
実際に走ってみると、峠は本当に怖かった、特に下りのカーブは。。
直線が長ければそれはそれで、楽でスピードが出てるがメーター読みで180km出てる。
そこからカーブが近づいてくるのでフルブレーキだ、強化していないブレーキが燃えた。。


広場などでのドリフトやパワースライドは簡単にできたがが、公道での本物の慣性ドリフトは結局一度もできなかった。
「頭文字D」は、当時まだ連載されてなかった。


この頃、東京帰りを迎えに来てくれたH君も、誘って同じ峠を攻めたいた。
その彼が、コースアウトして数メートルだが転落した。幸いかすり傷程度住んだが当然愛車シビックは大破した。そして、僕の峠を走るような暴走行為は終わった。
たぶん22歳くらいの秋だったと思う。

ここまでカッコ良くはなかったが、色やグレードはこれだった。


初めての結婚

...
初めて彼女ができた夏から3年の月日が流れた。順調に仕事も任せて頂けるようになっていた。
途中、色々あったが最終的には初めての彼女と所帯を持った。
僕が誕生日が遅く23歳で、誕生日を迎えたばかりの彼女が28歳だった。
結婚はまだ早いかなと、何度も考えたが、年上のこの人と無責任な時間は過ごせない。
別れを切り出したこともあったが、結局僕には必要な人だったので一緒になりました。


当時はまだ仲人を立てるのが普通で、前途の僕を採用してくれたN取締役さんにお願いした。
23歳の冬でした。


初めての解散

そして翌年、自分の所属会社が業績不振のため無くなることを知らされた。
え!俺結婚したばかりだけど。。
「あーぶんぶん君は、親会社で拾ってくれるから今まで通りそっちで働いて。」
びっくりした。こんなことあるんだ、でも、、一緒に遊んでくれたあの3人はどうなるんだろう。。
Kさんは、地元で玉の輿的な結婚することなったそうです。
前の記事で書き忘れたけど、先輩たち4人で飲みに行った踊れるお店で、Kさんとは一度だけチークを踊ったことがあります、いい思い出です💦
そしてT、S先輩はぶんぶん!お前は頑張れよ!って言って去っていきました😿


ちなみに、親会社へ移籍した僕は、給料体系も変わり急にベースアップした。
先月までと何も変わらない仕事なのに。。なぜ

ヤバい、もう4つ目の会社になっちゃった、だいじょうかな自分。。


初めてのリーダー

そんなこんなで根に持ちながら、頑張っていたら突然東京から大きなプロジェクトの話がやってきた。誰がメンバーなるのかな。。ザワザワ。。
15人以上体制で、1年半くらいになるらしい。持ち帰りまでの3か月、納品3か月は東京での勤務だそうだ。180人月弱のプロジェクトなんて経験したこともなかった。


当時上司で、退職時は常務取締役のY部長に呼び出された。
今回のプロジェクトのリーダーは、ぶんぶんお前だ!
えええ!僕ですか?先輩いるのに?なんで? と尋ねたが適任だからと言われた。。
後で知ったが、先輩たちはみな東京での長期滞在が嫌だったので断ったらしいと。
なんじゃそりゃー


メンバーはほとんどが先輩や年上の後輩だった、しかも数も足りず外注に出した。
そこでかき集められたのは、お父さんくらいの人たちだった。
今にして思えばポンコツチームもいいところだった。
「とりまとめのぶんぶんと言います。皆さんと一緒に頑張ります!」...しらー
...こんなチームで本当にやれるのかな。
26歳のおそらく秋頃やったと思います。

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