目指すものにたどり着きたい。

自分のために何かを呟きたいです。投資や投機もちょっと。

12/01水の思ったこと(自分のこと#2)

働くってことは、僕は簡単じゃない。

※長文失礼します。まだ前向きな話じゃないので苦手な人はスルーでお願いします💦


事故の後始末

幸いにも、その時の会社の先輩たちに進められて自動車保険の中でも最も手厚い
SAPなるものを契約していた。
そのおかげで事故の処理、相手の保証、そして大破した車のローン残高の大部分を支払ってもらえた。
今にして思えば、先輩たち感謝しかない。


事故相手との補償は難航しました、何度も頭を下げに通ったが罵倒されるだけで、
最後まで許しては頂けなかった。
もめにもめて最後は、保険担当会社から相手方に対し厳しい対応が取られ、面会もできなくなった。
保険会社の有難みを感じました。
そして最後に残ったのは、日産SILVAの写真と60万円くらいの借金だけだった。


再就職

そんなこんなで、18歳の夏に1つ目の会社を辞めた。
何度も上司に、せっかく入った会社をすぐ辞めるなんてと留意されたが、もうどうでもよくなった僕の耳には何も入らなかった。
一月くらいフラフラして、秋になり流石にこのままじゃヤバいと思い、職安に通った。


そして見つけた仕事は、コンピュータソフトウェア技術者だったかな。。
まったく勉強もしなかった高校3年間、パソコンだけは買ってもらった、将来やくに立つって拝み倒して。
でもそのパソコンでゲームだけしていて、ロクにコンピュータの勉強はしていなかった。
でも、何とかなるさと軽い気持ちで面接を受けた。


それは、入社後数年は東京での勤務となる条件だった。
給料は、確か基本給で10万円弱だったかな。
数年ってどのくらいだろうか、でもどうせ田舎に居たって車もない、友達に合わせる顔もないし思い切って行ってみようか。。
そして、10月に何の憧れもないのに上京した、それこそボストンバッグ1つで。
今にして思えば、母さんはどんな思いで俺を東京に送り出したんだろうな。。


花の都大東京

そして東京での一人暮らしが始まった。
独身寮は平井、勤務地は飯田橋だった。総武線一本で乗り換えなし今の僕から見たらすごく恵まれた通勤経路だったと思う。
でも当時の僕は、田舎から出てきたばかりの軟弱物だったから毎日の満員電車は堪えた。
仕事も結構過酷だった、研修期間はまあ普通の勤務だったが、実務となると急に厳しくなった記憶がある。
金曜日は、よく会社に泊まったものだった。


幅を利かせる先輩に、毎日のようにランチに連れていかれたが、洒落たなレストランでランチ一食1,000円だった。正直無理をしていて辛かったなあ。
世はバブル絶世期だった。でも寮費3万5千円を引かれた手取りは7万円くらいだった。
友達もおらず、仲の良い同期もいなく、余暇はひたすらやることがなかった。
安いゲーム機のプレイと、アニメ鑑賞、そして自堕落なジャンクフード。
初めての大都会での独りぼっちのクリスマス、、これも堪えた。
そしてすぐに19歳になったばかりで年越しだった。実家に帰るお金もなかった。


特にやることがないから、いわゆる開発の仕事は楽しく結構頑張った。
だがそれもつかの間、途中から某大手旅行造成会社の現場への派遣になり朝6時半くらいに出社することになった。
ただただ運用と監視だけの辛い仕事だった。同僚はちゃんとした開発プロジェクトで活躍しているように見えて、悔しくて焦った。
朝、本当に寒く感じて辛かった、たった一人でサーバーに電源を入れる作業が孤独だった。
年が明けて、どんどん寂しさが募り、仕事も嫌になっていった。


そして春くらいから、会社を休みがちになり、とうとう5月に会社を辞めた。
入社して僅か半年、またしても1年以内でだ。
今回も上司の課長になんども、頑張れ!このまま田舎に帰ってどうする?と
遺留して頂いた。
またしても大都会での暮らしに、失意しか感じていない僕の耳には何も入らなかった。
同時流行っていたドラマ「とんぼ」の主題歌に出てくる歌詞、花の都大東京を思い出す。


空港には、高校卒業後よく蔓んでた友人Hが迎えに来てくれた。
本当に嬉しかったな、彼は見栄を張る僕と違い、慎ましい中古のマーチに乗っていた。
そして何より、真面目に仕事を続けていた。
話を聞くと、入社から1年以上たったので後輩ができ、夏ボーナスが満額支給されることを誇らしげに教えてもらった。
僕には、何もなかった。まだまだシルビアの借金はあった。あと1年残っている。
何もやることのない、失意の19歳の初夏でした。

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